黒い真珠の女





泉の水を飲んでからこの方、ただの夢の筈なのに強い現実感を伴うようになっていた。
一度など、遠くにエイトの姿を見たように思ってそちらへ行こうとした。けれど、結局追いつくことができなくて、さらに足元に絡みつく茨に取り込まれて動けなくなったの。その茨の痛さ、そのまま茨になってしまうかも知れない恐怖に声の限りエイトの名を呼び続けていたのに誰も来なくて…そのまま目覚めてびっしょりと汗をかいていた私を現実のエイトがきれいに拭いてくれたのだった。
けれどもエイトの姿を見たように思ったのはその時限りで、後は一度も見たことはない。懐かしいトロデーンの庭に立っていても、エイトの姿はないのだった。
そんなある夜のこと。もう少しでサザンビーク、というところで日が暮れてしまった私たちは街道沿いで野宿していた。
私は野宿の方が好きだった。宿で休むことができない皆には申し訳ないと思いつつも。お父様も、
「日が暮れる前に次の街に辿り着くようにするものだ」
と文句を言いつつも楽しそうだった。話し相手がずっといてくれるからだったのかもしれない。大人数で囲む食事は簡素なものであっても、それは心楽しいものであったから。
皆の会話に耳を傾け、思いがけず楽しかった一時の後でふとまどろんだ私は夢を見た。
夢の中で私は例のごとく人の姿に戻っていた。どこか深い森の中にあって、道しるべとなるものもない。こんな森の中に一人でいるのは怖い、どこか開けた場所に出たいと辺りを見回すうち、木々の隙間に光が見えたように思った。
微かな手がかりに縋ってそちらへ向かう。あれは…泉?月の光を反射しているの?
漸く辿り着いたその場所はあの泉にどこか似ていたけれど、違っていた。天頂高く輝く満月の光を受けて、泉の水面は輝いている。けれどその輝きはどこか妖しげで、不穏なものを感じて眼を背けた。
と、その時自分が一人ではないことに気付いた。泉のほとり、草地の上にエイトが眠っていたのである。
「エイト?」
呼びかけたけれど、返事はない。無理もない、急に強くなった魔物と昼間あれだけ戦ったのだから。もっとよく見たくなって近寄る。跪いて(ひざまずいて)額に掛かる少し伸びた前髪を払ってあげようと手を伸ばしたその時、唐突にその場にもう一人の気配を感じた。
「誰です、そこにいるのは」
誰何の声に誰かが闇の向こうでくすりと笑ったように思えた。
「私はあなた…」
深い水底から響き来るかのような声と共に闇の中から女の白い顔が現れる。
「私はあなたって…」
鏡に映ったかのように私にそっくりな顔、そっくりの声。意表を突かれ絶句する私に女は嫣然と笑いかけてきた。
「そう、私はあなた」
一瞬顔だけかと怯えたのだけれど、そうではなかった。黒のドレスを着ていたせいで夜の闇に同化していたのである。
「一言言っておきたいことがあって」
一歩間違えば下品だと言われそうな程、そのドレスの襟元は大きく刳られ(くられ)、白い胸元が覗く。細く頼りない肩紐はドレスを支える役目を全く果たしておらず、豊満な胸の頂で滑り落ちるのが漸く止まっている有様。
「あなたの話を聞く道理はありません」
きっぱり言い切ったつもりだった。この者は人型をとっていてもきっと魔物。気を許せば襲われるだろう、と。けれど女は私を見てまたくすりと笑った。まるで内心の怯えを見通したかのように。
「おお、怖い。そんな顔をしてはこの方に嫌われてよ」
白くたおやかな手が眠るエイトの額髪を撫でようとする。が、その直前、私の手がそれを払いのけた。
「この者に触らないで!」
もしかしたら無理かも、と思っていたものの、案外容易く払うことができた。だが、女の余裕のある態度は変らない。
「うふふ、そんな大きな声を出しては目を覚ましてしまうのではないのかしら?」
はっと口を覆った隙に再び伸ばされた手はエイトの額を撫でた。
「私はあなた。でもあなたは持っていないものを私はたくさん持っている。そしてあなたが持たざるをえなかった余計なものを私は持っていないの」
私の目から視線を外そうともせず、凄絶な笑みを浮かべつつ手はエイトの顔を撫で続けている。
「その手を離しなさい」
「嫌よ。それにこの人だってそれを望んでいるわ」
その手はだんだん下がり、今は唇をなぞっている。優しく指の背で唇の形を描いた後、軽く突くと指先が一瞬埋もれ、引き出された指が濡れているのが分かった。
「だからね、この人をちょうだい。あなたには不要よね」
「駄目です。絶対に駄目」
この妖女には絶対に渡せない。もう一度懸命に手を払いのけようとしたけれど、さっきと違ってびくともしなかった。まるで広がり続ける心の怯えを糧にしているかのように。
「旅の間、見てきたでしょう?男の人って、胸の大きい人が好きなのよ。あなたのその貧弱な身体なんて、誰が望むのかしら?」
エイトは違う、と言いかけてふと口を噤んだ。旅の中でたくさんの人々を見てきたけれど、確かに胸の大きな女の人の方がより人気があったように思う。そう、例えばゼシカさん。ククールさんは勿論のこと、ヤンガスさんも最初は、
「はあー」
と呆れたように見ていたっけ。そしてエイトは…
「そんなつましい身体でも差し出しさえすれば男は悦ぶというのに、何を後生大事に守っているのかしら。精神的な繋がりが、と綺麗事を言ったところで身体の繋がりのない女なんて男にとって無価値なものだって知らないのね。可哀想な方。
それに」
エイトの襟元の紐を玩ぶ(もてあそぶ)指が止まった。
「あなたには婚約者がいるけれど、私にはいないの」
「そんなこと、あなたに関係ないわ!」
思わず声が大きくなってしまったのは、彼女の指が紐を解いたからだった。大きく開いた襟から意外にがっちりした胸元が覗いて、一気に鼓動が激しくなる。
「関係ない?」
取り乱す私に女はふんとばかりに笑った。
「あなたがこの者を欲するのは不倫でしょう。婚約者がいるんですものね。それを思ってあなたも、この人も一歩を踏み出せない。どんなに苦しいでしょうね。可哀想に。それを解決しようというのだから私って親切よね。
大体馬のあなたに何ができるというの」
「私は馬ではありません!」
これは仮の姿なのだ、と言おうとして遮られる。
「馬でしょう。今は仮の姿だと思っているみたいですけれど、いつかそれが本性となる。そのうちあなたは心まで馬となり、永遠にさまよわなければならなくなるの。
この人をそれに付き合わせるというの?いつ果てるとも知れない旅に。可哀想。私ならそんな運命からこの人を解放することができるのよ。私はあなたとなって」
ああそう、そうね…私はエイトを自由にしてあげたい。できることならこんな辛い旅なんてさせたくなかった。それにこの旅が終わったからと言って、何が待っているというの。私は、サザンビークへ…
「ほらほら、楽になっておしまいなさい。いつ果てるとも知れない辛い旅と悲しい物思いからこの人を自由にしてあげて。あなただけがそれをできる。そして私だけがそれをできる。ね?だって私はあなたであなたは私なんですもの」
この人は私…私は…この人ではないわ…そうよ、違う…
「ね?私はとっても聞き分けがいいの。あなたも、そうでしょう?だってあなたは私、私はあなたなんですもの」
私はあなた、あなたは私…そうなのかしら?
「考えては駄目。だって真実なのよ。私はあなた、あなたは私であることは。
さあ、仰って。この者の名を私に教えて。そうすればこの者の心は永遠に私のもの。私は永遠にあなたに成り代わってこの者の心を得るのよ」
そう、そうだったわ…私は…この人…エイトが好きな…え?それは?
「い…い、い、え」
女の言葉によって呪縛されていたのかもしれない。単なる否定の言葉を発するだけで非常な苦労を強いられる。
「何ですって?ちゃんと仰って。『はい』」
「いいえ!」
今度ははっきり声を出せた。女が柳眉を逆立てると同時に心を縛っていたものも消え失せる。
「言うものですか。私がこの者の名を明かすことはありません。さあ忌まわしい夢魔よ、分かったなら消えなさい!」
言葉と一緒にエイトに絡み付いている手を払いのける。と、女は忌々しげに舌打ちして掻き消えたのだった。
「エイト…」
全ての邪悪な気配が消えた後、改めてエイトを見下ろした。が、目を覚ます様子はない。そっと揺さぶってみたけれど、微かな寝息を立てているばかり。
まさか魂を奪われてしまったのでは、と慌てて辺りを見回していると、つい先程まであの魔女がいた草地に大粒の黒真珠が落ちていることに気付いた。それは月の光に鈍く光っていたが、摘み上げるとあっという間に黒から金色へ変化したのである。
「……」
これはもしかして、エイトの魂?本当にもう少しのところで大切な人を奪われるところだったのだと思い至って改めて身震いした。
これを戻さなければ。でもどうやって?胸の上に乗せてみたものの、身体に戻る様子はない。もしかして、飲ませなければならないのかしら。どうやって眠っている人に物を飲み込ませることができるのだろう。どうすれば…
その時、一つの方法に思い至って思わず身が震えた。口移しなら飲んでくれるかも…
雛が親鳥から餌をもらうように。そうよ、これは人の命が懸かっていることなんですもの、し、仕方ない、のよ…
慄く心に言い聞かせ、午後の太陽の光を集めたかのような金色の真珠を口に含む。真珠自体が仄かに温かくて、まるでエイトの体温のように感じてしまい、また震えたけれど何とか堪えてエイトの側に座った。
「お願い、エイト。起きて…」
零れ落ちる髪を掻き遣り、身をかがめる。微かな寝息に額の後れ毛がそよぐのを感じたが、心を決めてそっと唇を重ねた。そのまま含んでいた真珠をエイトの口の中へと移す。
(お願い、飲んで…)
離れたくない、と叫ぶ心を押さえつけ漸く唇を離して祈るように見守っていると、ややあって喉がこくん、と上下した。と同時に、
「ううん…」
とエイトの瞼が動く。
いけない、ここにいては!本能的にそう思って立ち上がり、身を翻して木立の中へ駆け込む。向こうからは見えないだろう、という木陰からあちらを窺うと、半身を起こしたエイトが眠そうに辺りを見回していた。
ああ、よかった、元に戻ったのね、と思った途端、辺りが急にぼやけて──


もう夜明けだった。私はまた馬の姿に戻っている。
あれは本当に夢だったのかしら?それとも本当にあったことだったのかしら?それは分からない。「目が覚めた」と感じたのだから夢だったのだと思いたい。全ては夢だと。
でもどうしてこんなに生々しい感触が残るの。あまりにも生々しく残る唇の感触。エイトの魂の温もり、そしてエイトの唇の熱と柔らかさと微かな湿り気…もしかしてあれは夢であってもそれは夢よりもっと確かなものだったの?私だけが見る夢なのではなく、本当はエイトと夢を共有して触れていたのかしら。エイトの心と、私の心が。
これもあの泉の力なのかしら?ではあの夢では話すことはできなかったけれど、もしかしたらエイトとお話ししたりできるようになるのかしら。誰の目を憚ることなく、二人だけで…


                                         (終)




2006.10.31 初出









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