前夜





「よくお休みになられますよう」
メイドさんたちは私にそう言ってくれる。この頃は特にそう。でも毎朝毎朝、身支度のために鏡の前に座る度、その言葉の空しさを感じずにはいられない。
もうずっと、眠りが私の元を訪れることはなかった。泣いてはいけないと思うから、床の中で涙が零れそうになる度、ピアノを弾く。言葉にしてはならない想いならば、せめて音に託そうと。
もう何年もピアノが私の言葉代わりだった。人に知られてはならない想いならば、想いを音に溶かして解き放つしかない。心の奥底に降り積もった想いが澱んで変質してしまう前に。そういう曲想なのだと言えばいくらでも言い逃れできるのだから。
身を起こすと寝台の帳をそっと持ち上げて滑り下り、枕辺に置かれたガウンを羽織る。暖炉の火はもう熾きになって部屋の中は大分寒くなっていた。音を立てないように隣室へ行き─これからピアノを弾こうというのにどうしてこんなに他の音を立てないように神経を遣っているのか分からなかったけれど─ピアノの蓋を開けた。
カーテンの隙間から溢れる月の光で部屋は真っ暗ではなかった。でも暗くても何の不自由もない。何年も弾き続けた楽器、目を瞑ってだって弾ける。
指を鍵盤に乗せ、音を発した。夜の静寂に予想以上に響いて身震いする。思わず自分の想いを叫んでしまったような気がして。
エイト、会いたい。一緒にいたい。どうして私を避けるの。もうすぐ私たちは大海を隔てて離れ離れになってしまうのに、と。
弱音ペダルを踏んで辺りを憚りつつも、想いは真直ぐエイトの心に向かっていた。せめて今だけエイトへの想いを歌わせて。
いつか私がこの国に帰ってくるその日にはもう、想いを歌うこともできないのだから。何年先のことか分からないけれど、あなたはきっと、他の誰かと結婚して幸せに暮らしている筈。私は玉座からあなたを遠く眺めるしかないの。
何て悲しい音。泣いているみたい。これでは他の人に知られてしまいそう。誰かに恋してはならない、結婚しているも同然の身なのだから、と思ってずっと自分の心を抑え付けてきたけれど、あなたに向かって想いが駆け出して行くのを止められない。ならばせめて、表には出すまいとしていたのに。
エイト。
エイト。
大好きなエイト。
ただ名前を想うだけなのにどうして涙が零れるの。誰かに恋するって楽しくて幸せな気持ちになるものだと思っていたのに。あなたを想うと胸が締め付けられそうに苦しくて泣いてしまいそうになるのはなぜ?
こんなことでいいのかしら。大海に遠く隔てられてしまったら、エイトと繋がる切れそうに細い何かが切れて私の心を形作るものが壊れてしまうに違いないわ。
逢いたいの。傍にいたいの。多くは望まない、ただお散歩の時のようにちょっと離れたところを歩くエイトの足音を聴くだけでいいの。それだけなのに。


その日が来てしまったら、私の心はどうなってしまうの…

           ※          ※          ※

ずっと夜勤が続いている。でもそれは僕自身が望んだことだ。それにどうせ夜になっても眠れはしないし。
昼勤なら必ずあの方の警護をすることになってしまう。それだけは避けたかった。こうなってしまった今、あの方の─ミーティアの側にいることが苦しい。他人のものも同然のミーティアが僕に向かって微笑みかける。翻る裾からいつも使っている香水が薫り立つ。軽やかな足取りで先を行き、時々小さく溜息を吐く。どれもこれも辛かった。なのにそれらなしではいられない。
己の弱い心故のこの辛さから逃れようとした筈だった。今夜は三階封印の間前での警備。すぐそこにあの方がいらっしゃる。それは辛いけれどどこか幸せだった。ミーティアの安らかな眠りを守っているのだと密かな満足を感じていただけだったのに。
突然夜の静寂を破ってピアノが鳴った。何事か訴えるかのように。ああ、ミーティアがピアノを弾いている。最初の音の後は弱音にしているけれど時々洩れ聞こえてくる。その音はまるで泣いているかのようだった。僕の覚えている限りそんな音でピアノを弾いていることなんてなかったのに。いつまでも幸せを溶かし込んだ優しい音色で楽器を弾いていて欲しかった。
泣かないで。泣かないで、ミーティア。できることなら飛んで行って慰めて差し上げたい。でもそれは許されぬこと。どうかもう、泣き止んで。
耳を塞いでも音は僕の身体を突き抜けていく。魂までも揺さぶって身体の中を駆け巡る。
止めてくれ、止めてくれ、ミーティア、お願いだから止めてくれ。でないと諦めようと心の奥底に押し隠した想いまでも表に出てしまうそうだ。
ミーティア。
ミーティア。
好きだ、ミーティア!
いっそ僕の想いを伝えてしまいたい。でもそれは決して許されぬこと。一国の王位継承者に、それも許嫁者のいる王女に恋い焦がれているなんて誰にも知られてはならない。
僕に許されているのはただ、心からの忠誠をあの方に捧げることだけだ。ミーティアのためならいくらでもこの身命を捧げよう。あの方を守るためならどんな汚名だって着てみせる。何の見返りもいらない。魂だけの存在になっても守り続ける。
でも違うんだ、それとこれとは。主君への忠誠とはまた別のものなんだ。恋しく思うあまりどんな愚行をしてしまうか分からない、そんなあってはならない僕の想い。
これからはただひたすらあの方の名を胸に抱き続けよう。遠く海を隔てた地で幸せに暮らしているだろうミーティアへ、想いを叫んでいよう。決して口には出さず、ただ心の中だけで。


明日も夜勤。確か三階西側テラスだった筈。直に会うのは辛いけど会えないのも辛い。でも近くにいるんだと思えば少しは楽、かな…


                                    (終)




2005.11.26 初出









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