バッカスの踊り




バッカスの踊り





目が覚めると城中に楽し気な空気が漂っていた。
着替えを手伝ってくれるメイドさんも、今日は何だか心ここに有らず、といった感じ。
「今日、何かあったかしら?」
髪を梳かれながら鏡越しに問いかける。鼻歌でも歌い出しそうな様子だったので。トラペッタのお祭りもまだ先だったし、なぜ皆楽しそうなのか分からなかった。
「まっ、まあ、申し訳ございません」
慌てて取り繕いながらも私の疑問に答えてくれた。
「今日は城の者総出で葡萄搾りなのでございます」
その言葉にうっすらと去年の記憶が甦る。確かそんなことをしていたような。でもそんなに大掛かりだったかしら…
「今年は当たり年だとかで質、量ともに最高の出来なのだとか。いつもは私どもが手伝うことはないのでございますが、特に人手が要るとかで呼ばれているのでございます」
「楽しそうね。見てみたいわ」
そう言うとメイドさんはちょっと考える風だったけれど、
「今日の講義はサザンビークの歴史なの。でもあの先生、進むのがとっても遅いんですもの。もうとっくにご本は読み終わってしまって、空でだって言えるわ。今日お休みできないかしら」
と言うと、
「…分かりました。ではその旨、お伝えいたします」
と渋々了承してくださった。



教育係の方とも話がついたのか、今日の講義はお休みになった。きちんとお勉強することはとても大切なこととは分かっているのだけれど、あの先生の講義だけは気が進まない。どうしてなのかは本当はよく分かっているのだけれど…
それもあってとても解放された気持ちで庭に出てみると既に大きな桶と樽が準備されていた。
「まあ、こんなに大きい桶、初めて見たわ」
荷車の荷台程もありそうな大きな桶に近寄ると、中ではエイトがせっせと拭き掃除をしている。
「おはよう、エイト」
「…おはようございます、姫様」
もう名前では呼んでくれない。人目があれば殊更素っ気無い。でも本当はそうしなければいけない。だって、いつまでも子供のままでいることなど、できはしないのだから…
それでも他の人々の楽しい雰囲気に影響されたのか、珍しくエイトの方から話し掛けてきてくれた。
「もうすぐ葡萄が届くんですよ」
「まあ、そうなの。楽しみだわ」
他愛もない会話。でもそれだけでもとっても大切。
「ところで葡萄搾りってどういうことをするの?」
「葡萄をこの桶の中に入れて」
そう言って足元を指差す。
「みんなで桶の中に入って踏み潰すのでございます。こっちは赤ワイン用、あっちが白ワイン用でございます」
「…そうよね、色が着いてしまうものね」
もちろんワインを飲んだことはない。でも色の違いくらいは分かる。宴会の時お給仕さんが持っているのを見たことがあるから。
「今年は特別な葡萄もあるそうでございますよ」
「特別?どんな葡萄かしら」
「さあ…僕も話で聞いただけなので分かりませんが、とても甘いワインができるんだそうです」
「じゃあその実はとっても甘いのね、きっと。食べてみたいわ。一粒貰ってもいいと思う?」
「多分大丈夫だと思います」
そんなことを話しているうち、門が開いて馬車が入ってきた。領地の畑から収穫された、緑色の葡萄が山積みされている。
「葡萄が来たぞ!手の空いている奴は手伝え!」
声が掛かり、わらわらと人が城内から出て来る。桶に移し替えていると次の荷車もやってきた。こちらには黒い葡萄が。料理長さんが指示を出している。
「混ぜるなよ、白ワインがロゼになっちまうからな。赤潰した奴は白の樽に近付くんじゃないぞ」
エイトは黒い葡萄を桶に移し始めた。と、たちまち果汁で服が赤紫色に染まる。
「ミーティアも手伝うわ!」
何だかもう、訳もなく楽しくなってしまって、服が汚れることなんてすっかり忘れて黒葡萄の房を抱え取る。
「姫様!」
誰かが気付いて私を止めようとしたけれど、もう既に潰れた果汁で服は染まっていた。
「ごめんなさい、服を汚してしまって!」
そう言いながらもどんどん桶に房を投げ込む。
「白の方になさればよかったのに!」
隣でエイトが笑う。
「いいの!こんな楽しいことしたことなかったんですもの!」



桶の底一杯に葡萄が入ると、メイドさんたちが出てきた。皆足をよく洗うとそろそろと桶の中に入っていく。そうして誰かが歌い出し、踊りが始まった。葡萄の上で。葡萄はたちまち潰れ ていく。
「ミーティアも踊ってみたいわ」
隣のエイトにそう言うと、
「うーん、…じ、じゃ、くくく靴下脱がないと」
突然動揺し出した。あら、どうしてかしら?
「そうね、じゃ、靴下脱いで来るわ」
さすがに人前は恥ずかしいので図書館に入る。今日は皆庭に出ていて無人だったとのをいいことに靴下留めから靴下を外して脱いだ。裸足になることなんてなかったけれど、ちょっと気持 ちいい。でも靴下なしで靴を履くのって、変な感じ。
早速外に出て足を濯ぎ、桶の中に入る。足首まであるドレスもたくし上げて膝が見えてしまった。でも素足でこんなことをするなんてとっても楽しい。それに暖かい陽射しの中で歌ったり 踊ったりできるなんて!
一旦桶の中身が空けられて、また新たな葡萄が入れられる。
「エイト!エイトも一緒に踊るのよ!」
「えっ、でも…」
躊躇うエイトに手を差し延べる。
「ね?お願い」
その時は知らなかった。葡萄を搾るのは女の子だけ、ということ。でもどうしても一緒に踊りたかった。その額に寄る寂しそうな気配を拭ってあげたかったの。
「ほら、姫様が呼んでいらっしゃるぞ」
「…そうねえ、エイトだったらいいわ。どうぞ」
周りの大人に押され、桶の中で一緒に踊るメイドさんたちに手招きされる。エイトは仕方無さそうに靴下を脱ぎ、ズボンの裾をたくし上げ、足を洗って桶の中に入ってきた。
どこかおどおどとしている手を取る。慌てるエイトに、
「あの曲、覚えていて?一緒に踊った曲」
と囁いた。
「…ええ」
そう、お城の舞踏会で奏でられる優雅なメヌエットやガボット、荘重なサラバンドのような端整な曲ではない。かつてトラペッタで踊った、変わった拍子の楽しい踊り。私が一節を口ずさ んで踊るとエイトもそれを受けて踊る。メイドさんたちは最初はきょとんとしていたけれど、元々トラペッタやその近くの出身が多かったから、あっという間に踊りの輪が広がった。
大きな桶だった筈なのに、何人も入って踊るものだからちょっと狭く感じる。でも肩がぶつかってしまっても楽しい。大抵、エイトとだったし…



踊りに踊って全ての葡萄を潰し終えた。もうへとへと。ドレスの裾は赤紫にぼかし染めになって、点々と水玉模様がついている。足を濯いで貰って、裸足のまま靴を履いた。
と、そこへ新たな荷馬車が着いた。
「あっ、あれね、すごく甘い葡萄って!」
きっとつやつやしていて、ほんのり粉を吹いていて、丸々と大きな粒の葡萄なのだろう、と急いで駆け寄る。けれど、
「んん?」
「わっ!」
首傾げる私の横でエイトが驚く。荷台には灰色でしわしわしている上に所々灰色のふわふわしたもので覆われた葡萄ばかりがあった。どう見ても美味しそうではない。
「はっはっは、びっくりなさいましたかな?」
御者台の老人が笑った。
「これが貴腐葡萄でございますよ。葡萄にカビが生えたものでございます」
「カビ?」
「えっ、カビなんですか?!」
「左様。特別なカビなんでございます。このカビが付くとうっとりする程甘く美味しいワインができるのでございますよ」
「まあ…」
「へえ…」
知らなかったわ。世の中って思いもよらないことがたくさんあるのね。図書館にたくさん本はあるけれど、実際に見てみないと分からないことって一杯あるんじゃないのかしら。きっと素 敵なことで一杯なのでしょうね。
見ることができたらいいのに。…できれば、エイトと一緒に…









                          



2005.11.18 初出
 









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