古城




眠りから解き放たれた城の庭に、笑い声が響く。即席でありながらも豪華な料理を前に、麦酒を飲んでは開放された喜びを語り合う。貯蔵庫からお父様秘蔵の葡萄酒樽が運ばれ、皆に配られた。と、たちまち口々にエイトたちの勇気と武勲を褒め称えてグラスが掲げられる。私も嬉しくなって、隣のエイトとグラスを掲げ合う。その途端、エイトの眼が近衛兵のものに戻った。
旅は、終わった──


そう、旅は終わってしまった。
暗黒神は倒され、もう二度と復活したりしない。呪いは解け、人々は明日から始まる復興への大変な道程を知りつつも今日という日を喜んでいる。呪われる前と変わらぬ生活が戻ってくることを信じて、救ってくれた四人の勇者たちを称えている。私も、とても嬉しい。辛い旅──歩くことよりむしろ、目の前でヤンガスさんやゼシカさん、ククールさん、そしてエイトが傷付く姿を見ることの方が辛かった──が終わり、呪われた馬の姿から開放されてどんなに嬉しいか。でも…
でも、本当に元に戻れるのかしら。
旅をして、私は知ってしまった。自分がいかに狭い閉じた世界で生きてきたのかということ、その狭い世界から得られるささやかな知識だけで物事を見てきたということを。そして…チャゴス様のことと、自分の本当の想いを。
知らなければ、黙って嫁ぐことができたのかしら?国の要請に従って、両国のためにと結婚できたのかしら?きっとそんな覚悟もなくて、あちらに行ってから後悔と追想の中で暮らすことになったでしょう。それでも、チャゴス様のお人柄を先に知ることができたことで、前もって覚悟を決めることができるのだと思えばいいのかもしれない。
けれども、どうして気付いてしまったの。自分がどんなにエイトを慕っていたのかということに。何よりも大切な思い出として心にしまい込んで嫁ぐつもりだったのに、それすらできないなんて──
「ミーティア様」
振り返らずとも分かる。エイトの声だった。
「こちらにおいででございましたか。急にお姿が見えなくなったので、皆案じておりました」
ここは城の古い見張り場、エイトと二人で見付けた秘密の場所だった。何か思うことがある時はここに来ては海を眺めて思い耽ることがいつもの事だった。エイトもそれを知っていたのか、宴の席からそっと姿を消した私をすぐに探し出したのだろう。
「皆、とは誰の事でしょう」
エイトはもう、完全に近衛兵に戻っていた。そのことが異常に哀しく、苛立たしく、つい絡むようなことを言ってしまう。
「皆は…皆です。城の者誰もが姫様の笑顔を拝見し」
「ええ、そうね!」
ぱっと振り返ると、心の赴くままにエイトの言葉を遮って叫んでいた。
「そうね!ミーティアはただ、にっこりしていればいいのよね。難しいことは何も考えず、うっとりと微笑んでいれば誰もが満足するのでしょう。本当はどんな想いを抱えているかなんて誰も知りたくないでしょうから!」
言い終わった後も、私の唇は震えていた。声を荒げるというほとんど経験のないことを、それもエイトに対してしてしまったという事実に気付いたのは燃える様なエイトの視線とぶつかった後だった。
「…僕の役目は…」
エイトの声もまた、震える。
「姫様の笑顔をお守りすることです。姫様がお怒りになりたいのならば、どうぞお心のままにお振舞いになってください。ですが僕はその怒りの原因となったものを取り除かねばなりません。
御前、失礼いたします」
そう言って一礼し、踵を返した。
「待って」
それでもエイトは立ち止まらない。
「僕に対して怒っていらっしゃるのでしょう。ならばこの場を去るまでです」
滅多に怒らないエイトの背中から冷ややかな怒りが立ち上る。
「あんなことを言ってごめんなさい、エイト。あなたに言うことではなかったのに…許して」
肩が震え、足が止まった。それでもエイトは振り返らない。
「いいえ、姫様が悩んでいらっしゃるのに気付かなかった僕がいけなかったのです。どうぞお気になさいませんよう」
「行かないで!」
私は思わずエイトの背中に縋り付いていた。
「お願い、行かないで」
「…姫様、どうか」
長い沈黙の後、エイトが搾り出すように声を発した。
「人目もございます。どうかお慎みを」
「嫌です」
ここには誰もいない。それを知っているからこその行為だった。
「『心のままに振舞っていい』と言ったのはエイトでしょう。だから」
「駄目です」
いつにないきっぱりとした拒絶の言葉にはっと身を硬くすると、エイトの肩もぴくりと動いた。
「それはなりません。どうかお許しを。…ミーティア様」
一瞬自分の耳を疑った。エイトが、私の…名前を呼んだ?
「どうかこれ以上のことはお許しください。ミーティア様」
名前を呼ばれたことに驚いて怯んだ瞬間に、エイトはさっと身を離してこちらに向き直る。
「僕の心は永遠にあなた様のものです、ミーティア様。命を懸けてお守り申し上げます。ですが、どうか…」片膝を付き、頭を垂れるエイトに、私は何も言えなくなってしまった。
「…エイト」
「永遠に捧げる」と言いながら、それは私とエイトを永遠に隔てるもの。ひどい人。そうやってあくまで主従の関係の中に逃げるのね。
「…ありがとう。あなたの心、しかと」
けれどもどうして断ることができよう。それがエイトの精一杯なのだから。そしてそれがエイトの心なのだと思えば無碍になんてできはしない。
「戻ります」
きっぱりと言い切って、通路の方へ足を踏み出す。そう、旅は終わったの。私は私に課せられた義務を果さなければ。エイトがエイトの義務を果さなければならないように。
「お供仕ります」
エイトの足音が重なる。ああ、私に許されていることはこれだけ。ただ一緒に歩くだけ。


変わるとするならば、それは──

           ※             ※             ※

宴の夜が明けた。早くに城を出ようと旅支度を整えて部屋を出る。廊下でエイトやククールとちょっと話していると、姫様が私を部屋に呼び寄せた。
「もう発たれるのですね」
部屋に入って開口一番、姫様は仰った。
「ええ。トロデーン城はいいところで何だかつい長居してしまいそうで。それに」
ちょっと言葉を切って、言うべきことへの心の準備を済ませる。うん、大丈夫。
「兄さんに知らせないと。きっと心配しているわ。『またゼシカが無茶してる』って」
「まあ」
姫様は私の言葉にそっと微笑み、
「何もありませんけれど、よろしければどうぞ」
と手ずからグラスに水を汲み、私に勧めてきた。
「恐れ入りますわ」
冗談めかしつつも作法に則ってグラスを受け取ると、花の香り─薔薇かしら─が優しくも清々しく匂い立ち、ぼんやりとした重い寝覚めを吹き払ってくれた。
「本当に残念です」
同じ薔薇水を口にした後、姫様が静かに言った。
「皆さん、あっという間に散り散りになってしまうのですね。どうかお時間のある時はいつでも、いらっしゃってください。トロデーンの門はいつでも開いておりますわ」
「ありがとうございます、姫様」
今更ながらもう旅は終わったんだと思い知ってちょっとしんみりしてしまう。
「是非また遊びに来るわ。あのイチゴクリームの乗ったシフォン、とっても美味しかったんですもの」
そんな気持ちになるのが嫌で努めて元気に言うと、姫様の口元がほころんだ。
「うふふ、ではいついらっしゃってもいいように用意しておきますわ」
やっぱりそういう部分は普通の女の子と同じなのかも。甘いものの話に楽しそうな顔をする。が、すぐ真顔に戻った。
「本当に、たくさんの方と親しくお話しできて嬉しかったのです。ゼシカさんとは特に。同じ年頃の女の方と話すことなどほとんどありませんでしたので」
「えっ、そうなの」
思いがけない言葉に思わず声を上げてしまった。
「だって舞踏会とか何かの会にはそういった年頃の方もたくさんいらっしゃるでしょう。その方々とは?」
そう言った途端、姫様の顔が曇った。
「そう、そうですね…確かにたくさんの方々がおいでになられましたわ。でもその方々は王族としての私に用事があるのであって…それに特定の方とあまり親しくなることはお父様からも強く注意されておりましたもの」
姫様はそっと花瓶の花を撫で遣り、小さく溜息を吐いた。
「王とはそうしたもの、高みに昇ることはたった一人で立つことだと学んできました。そしてそれが当たり前だとずっと思ってきたのです。
ですがあんなことになって、皆さんと旅をするうちに知ってしまったのです」
一瞬言葉を切り、頼りなげに視線を宙に彷徨わせる。
「…私にはエイトがおりました。どんな時も、ずっと一緒でした。どんなことがあっても、怖いとは思わなかったのです。エイトが一緒にいてくれたのですから。
そして皆さんと親しくお話しすることがどんなに楽しかったことでしょう。ヤンガスさんのお宝鑑定はとてもためになりましたわ」
旅の途中、野宿の時の会話を思い出したのか本当に楽しそうな顔をしていた。
「ま、まあそうかも。でも姫様に役に立つかどうかはどうかしら」
「人生いつ何があるかなんて分かりませんもの。そうでしょう?
ゼシカさんの初めて呪文で火を熾した時の話もとても面白かったわ。ククールさんの靡きそうな女の方を見分ける話も参考になりましたし」
「あいつの話なんて忘れた方がいいわよ」
不意に出た単語に不用意だった私は思わず激しい剣幕で言葉を遮っていた。
「ふわふわ浮ついて生きてきた奴の言うことなんて信じちゃ駄目。絶対痛い目に遭うんだから。
でもエイトはそうじゃないでしょう?そっちの方が実のある話をしてくれるわよ。これからはいっぱいお話しできるんだし」
と言った途端、姫様の顔色が変わった。
「何かされたの?酷いこと言われたとか」
「いいえ、いつもと変わりありませんわ」
声が震えていた。
「…そう、旅の前と変わらず、いつも通りに」
旅の前──ということはエイトは、主の姫としてしか話をしなかったということかしら。
「姫様」
「あの人はどうして」
大きく見開かれた眼に、見る見る涙が盛り上がる。姫様はそれでも涙を零すまいと瞬きを堪えて眼を見開いたまま続けた。
「どうしてあんなに自分勝手なのでしょう」
けれども言い切った途端、涙が転がり落ちた。そうなってしまうともう止められないのだろう、涙は後から後から零れ落ちては頬を伝い、姫様の鎖骨の窪みに溜まっていった。
「王族の義務を忘れてはおりません。自分の立場も、弁えているつもりです。
でも、ほんの一時の夢を見てはなりませんか。朝には消える、儚い夢さえも望んではならないのですか」
私には何も言えなかった。エイトは多分、よくある昔話の勇者たちのように助けた姫様に求婚しなかったのだろう。どうしてしなかったのか、できなかったのか何となくだけど分かるような気がした。そしてそれは正しいことなのだろう、と理性が告げる。でもその答えには納得できなかった。
姫様の涙は、かつて私が流したものと同じだった。理不尽に兄さんを奪われた怒りと悲しみ、しきたりという名の押し付け、それを全部引き千切って旅に出て、今、ここにいる。旅が終わって、単なる復讐の成就だけでなく何にも脅かされずに済む明日を手に入れた。だけど姫様は─
「ゼシカさん、泣いていらっしゃるの」
言われて気付く。自分の頬が濡れていることに。
「悲しくって泣いているんじゃないわ。悔しいのよ」
姫様の負う責任はとてつもなく重い。一時の感情に任せて振舞えば、この大陸に住む全ての人々にその影響が及ぶ。旅の間それを見てきた私だったのに、そのことについては何の解決もできなかったことが悔しくてならない。
「…ひどい人」
様々なものへの渦巻く思いに押し出され本当に不用意に言葉が転がり出ていた。
「どうしてどうにかしようとしなかったの。どうして気付かないふりをして逃げたの。私にだってできることはあった筈よ。一歩踏み出せば新しい世界が開けるかもしれないのに」
理不尽な怒り、それが今の私の気持ちだった。
「兄さんもだわ。『必ず帰る』って言ったのに。なのにどうして死んだりしたのよ。私は今でもあの朝兄さんが出かけていく後ろ姿を夢に見るわ」
姫様が歩み寄ってそっと私の手を包んだ。柔らかで、滑らかで、でもひんやりとしたその肌触りにますます涙が止まらなくなる。
「私、旅に出て、頭ごなしに否定されたりご機嫌取りなんかじゃなくて自分の意見をとことん話し合うことができて本当によかったと思ってるの。結局自分の意見が通らなくても納得できるものなんだって分かったし。
だけど何よ!最後の最後になって!エイトも、ククールも、みんな勝手に自分の気持ちだけ押し付けて!そのくせあなたのためにしました、なんて顔するのよ。最低だわ!」
まるで子供のわがままだわ、と心のどこかで思っていたんだけど、もう涙が止まらない。
旅は終わった。ラプソーンの脅威はもう、どこにもない。けれどもその世界に兄さんはいない。仲間だと思っていたみんなも、世界のあちこちへ散っていく。まるであの苦しく長い旅なんてなかったかのように!
「仲間だ、って言っても今日の朝にはみんな散り散りになるのよ!そんなのって、ひどいわ!」
私、きっと酷い顔してる。言ってることだって無茶苦茶だ。それでも姫様は黙って私の手を撫でてくれた。まるで小さな子供をあやすかのように。私にはそれすら腹立たしかった。
「姫様だって言ったらいいのよ!好きな人がいるって、その人と結婚するって!どうして静かな顔をしていられるの。自分の運命でしょう。なのにただ涙を流すだけなんて、そんなのまっぴらよ!」
「…それでもきっと、こう言うの。『僕はお気持ちに応えることはできません、ミーティア様』って」
静かな声だった。なのにそれは私の身体の中で暴れる怒りを一瞬にして静めた。
「…姫様」
「男の方って、どうしてあんなに自分勝手なのでしょう」
姫様の涙がはた、と私たちの手の上に落ちる。次の瞬間、それをきっかけにしたかのように抱き合っていた。
「本当。どうしてあんなに…」
ただ同情し合っても何も生まれないって分かっている。それでもお互いにただ声を上げて泣く相手が必要だった。
先の見えない明日を歩いていくために。


                                                (終)

2008.2.22 初出 






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