かつての花、名前、追憶




3.


思い出を集める作業は殊の外堪える、とミーティアは小さな溜息を吐いた。移動に関しては人前では馬を使っているように見せかけておいて風の帽子を使っていたのでそれ程疲労はない。むしろたくさんの人々の想いに触れることの方が身に堪えた。二人とも突然失踪してしまったため、残された者は行き場のない感情を抱えたまま時を重ねている。二十年という歳月を経ても──むしろ経ているからこそ、想いは深く心に刻まれている。恨みも思慕も諦念も全てが心の奥底に根差していて、口先だけでは取り繕えない感情を受け取ってしまうのだった。
つい先程話を聞いた老人──エルトリオの傅役だった──は主を失ったことを深く悲しんでいて、ミーティアはエルトリオの死を未だ知らない彼に伝えることを躊躇い、結局言うことができず空しい希望で慰めることしかできなかった。二人の忘れ形見がいるということも。もっとも、エイトの出自については公式には明らかにできないことになっているのでミーティアの口から話すことはできないのだが。
それでもベルガラックから──さすがにサザンビークの宿屋で男装を解くことは憚られた──あの泉へと移動し、久々に清らかな泉の水を口に含むと、身の内に燻る重い疲労感が解けていくのを感じた。今日の午後はエルトリオの師でもあった宮廷魔術師の許へ行こうと決めていたのである。もちろん、クラビウス王に聞いた二人の肖像画を奪うつもりはない。ただ、絵を見せてもらって少し話を伺えたら、と思っていた。
水面に映る自分の顔色が余り良くないような気がして、手近に咲いていた薄紅のヒナゲシを摘んで麦藁帽子に飾る。疲れている様子を見せないようにしようという彼女なりの気遣いだった。
「行きましょうか」
泉の周りを飛び跳ねているスライムたちに声をかけると、ぷるぷるしながら次々に馬に飛び乗ったが、一匹だけ跳躍が足りなくてぺちょ、と地面に落ちた。
「大丈夫?プルッピちゃん」
最初は見分けがつくとは思っていなかったのだが、ずっと一緒にいるうちにどれがどれだか判るようになってきた。プルッピは力は強いが跳躍は苦手で、よくいびきをかいて寝ている。他の二匹もちゃんと個性があって、各々が互いの弱点を補い合っていた。
明らかにしょげ返っているスライムを抱き上げ、馬に乗せてやる。馬の背でおとなしくしている三匹を見てミーティアはにっこりと微笑むと、彼女自身も馬上の人となった。


以前旅をした時は泉と魔術師の家の間ですら魔物が出たのだが、今はすっかりおとなしくなって無闇に襲ってはこなくなった。今日も向こうの方でバーサーカーと思われる魔物が飛び跳ねていたが、こちらを無感動に一瞥するとまたひたすら跳ねることに没頭している。
「おお、これは」
魔術師の家の前に来ると、丁度家主は家の外に座ってのんびりと寛いでいる様子だった。
「あの時の姫君でいらっしゃいますな。人の姿に戻られたようで何よりでございます」
「ありがとうございます。あの時は大変お世話になりました」
呪いの事を隠さずに済むのはありがたかった。向こうは知らなくてこちらだけが深い事情まで知っているという状況は外交ならともかく、余り望ましくはない。思い出話を引き出そうという時に余計な警戒をさせたくなかった。
「賎の屋ではございますが、お運びいただければ幸いでございます」
「ありがとうございます。喜んで伺いますわ」
老人の誘いを渡りに船と受け、ミーティアは彼に従って家の中へ──中に入るのは初めてである──入っていった。


「むさ苦しくしておりますが」
と魔術師は言ったが、収まるべきところに収まる物がある様はとても心安らぐものであった。その中を三匹の魔物たちが思うまま寛いでいる。
「いえ。とてもいいお家ですね」
ミーティアは心からそう言った。差し出された水も柑橘が香り高く、すっきりとした気持ちにさせられた。
「この水はあの泉の…?」
「左様でございます。大分お疲れのご様子でしたので、僭越ながら些かなりとお力になれば、と」
「まあ」
魔術師の言葉にミーティアは思わず頬に手を当てた。確かに宿で今の服──水色と淡いピンクの太い縦縞に鳶色の細い縞がアクセントで入ったペザント風のドレスだった──に着替えた際、鏡の中であまり顔色に映えないと感じていたのである。その時は光線の具合が悪いのとドレスの色が自分に合っていなくてそう見えるのだと思っていたのだが、よく考えてみれば誂えた時はちゃんと似合っていたのだからそれは疲労からくるものだったのである。
「どうかごゆるりとお寛ぎくだされ。思い出語りはゆったりとした気持ちでないと悲しいものになりがちでございますでな」
「どうして…」
「クラビ…王陛下が直々の使者を遣わされましてな。近々トロデーンからの客人がそちらに行くかも知れない、とお知らせくださいまして」
「まあ、お騒がせしてしまったようで申し訳ございません」
申し訳なさそうなミーティアに魔術師はにっこりと笑ってみせた。
「何の。このように隠居しておりますと外からの客人は歓迎すべき者が多うございます。使者として来た者も私の弟子でして、懐かしい話を聞くことができて楽しゅうございました」
「それはようございました」
客人に気を遣ったのかも知れない。だが魔術師の表情は心から楽しんでいるように見えた。
「昔話ができるということは楽しいことでございますよ。宮仕えを退いても弟子たちの消息は気になりますでな。成長した様子をこの目で確かめることができて一安心でございます」
「いいお弟子さんたちがいらっしゃるのですね」
「ですが…」
と魔術師は渋い顔をした。
「おめおめと鏡の魔力を奪われた上それに気付かないなど、本来なら許されることではございません。エイト様が元に戻して下さったから良いようなものの」
「あっ、そういえばあの鏡、トロデーンの宝物庫に入れられてしまったのですが、よかったのでしょうか」
太陽の鏡のことに話が及び、以前から気にしていたことを口にした。
「王陛下がエイト様に、と下されたのであればそれでよいのだと思いますよ。何しろ、ああいった魔力を持つ道具は自ら居場所を決めるのだと申しますでな」
「そういうものなのですか?」
「そのように聞き及んでおります。そもそも、魔力があろうとなかろうと、万物はあるべき所に還って行くものだと、この歳にして漸く理解いたしました。今日ここに公妃様をお迎えしてそれを確信いたしましたよ」
唐突に出てきたようにも思える自分の名にミーティアは目を丸くした。
「それはどういったことなのでしょう」
「少し長い話になりますがよろしいですかな」
その言葉に頷いて賛意を示すと、老魔術師は軽く口を湿して語り始めた。
「先日、王陛下の使者が来るより前のことでございます。珍しい客人がありました。その者、かつてサザンビーク王家の肖像画を描いていた画家でして、何でも依頼で描く絵はもう引退して気ままに描きたいものを描く旅をしているのだそうです」
思い当たる節のあったミーティアがぴく、と眉を動かしたが、魔術師は軽く頷くに留めて語り続けた。
「左様、エルトリオ様とウィニア様の御成婚の際の肖像画を依頼した画家でございます。公妃様もお会いしたことがございますな?依頼で描いた最後の絵はトラペッタ公夫妻の御成婚の肖像画だったと伺ってございます。
画家は、この辺りの谷間の風景を描きに来て、私がここに引っ込んでいることを思い出して寄ったのだとか。これもまた思いがけない来客で楽しい一時でございました。
その時にこれを預かったのでございます」
と立ち上がって奥の棚から少し大きな包みを取り出してきた。
「『預かった』のですか?」
「左様」
重々しく頷き、再び席に戻った。
「私も不思議だとは思ったのでございますが、『誰も来なければあなたが持っていてくださって構わないが、多分取りに来る人があるだろうから、その人に渡してもらえるとありがたい』と」
促されるまま包みを開く。と、たった今絵具が乾いたばかりのような瑞々しい色彩の若い男女の肖像画が現れた。
「これは…!」
「エルトリオ様とウィニア様でございます。二十年程前下絵として描かれたものの、長らく仕上げることのなかったものでございますが、つい先だって『描かねばならぬ』という気持ちになったとかで旅の合間に仕上げたのだそうでございます」
「まあ…」
探し求めていた物が今自分の手の中に、とミーティアは感無量の面持ちでその絵を眺めた。通常肖像の間に飾られるような絵は全身が入るよう描かれることが通例であるが、その絵は二人の上半身のみで、親しげに寄り添って親密な雰囲気がよく表わされている。衣装も式典用の豪華なものではなく、より気軽な親しみやすいものだった。
「この絵は…もしかしてエルトリオ様が気に入られたというものですか?」
「そうであるかどうかは分からないのですが…ですが画家は一番気に入った構図だった、と申しておりました。是非色を乗せて仕上げたかったが、気ばかり急いて描けずにいるうちにエルトリオ様もウィニア様も行方不明になってしまわれて。以来ずっと心残りになっていたのですが、旅に出た時やっと『ああ、描きたい』と心から思えたのだとか。その絵を描く短い期間ではありましたが、一介の絵師にも気安く親しく接してくださったお二方が懐かしく思い出された、とそれは嬉しそうに申しておりました」
その言葉にミーティアがほっと頬をほころばせると、魔術師もにっこりとした。
「結局のところ、幸せだった思い出だけが残っていくだと思うのでございます。どんな深い悲しみも、怒りも、時の流れに洗われて祓われ、癒されていくものなのでございましょう。決して何かが解決する訳ではございませんが、その者にとってはそれでよいのではないか、と。
ですからどうかご案じくださいますな。悲しむ者も、怒れる者も、いつか清められて解き放たれていくのでございましょう。どれ程の時が必要なのかは人によって違う、それだけでございます」
「ありがとうございます。…そうですね、そうなればいいと願っておりますわ」
旅の中で出会った己の中にある辛い感情に未だ苛まれている人々を思い、ミーティアは心からそう言った。
「さて、辛気臭い話はこれで終わりといたしましょう。申し訳ございませんが、公妃様にはこれから、この老人の楽しい思い出話にお付き合いいただきますよ」
ぽん、とばかりに手を打ち合わると、魔術師は悪戯めいた表情を浮かべた。
「喜んでお付き合いいたしますわ」
ミーティアもまた、にこやかに受けて立つ。


それから午後の一時、老魔術師の楽しい思い出話に花が咲いたのであった。


                                  (続)
                                  



2014.7.24 初出 






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